昭和52年2月8日 朝の御理解
中村良一
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
天地金乃神様の広大無辺のご神愛を分からせて頂いたのも金光様。またその、天地の御恩徳を分からせて貰うて、その御恩徳を受けられる道付けをしてくださったのも金光様。また、おかげを受けるに当たっても、生身を持っておる凡夫のことでございますから、お粗末ばっかりであったり、不行き届きのこともございますけれども、そこをかぼうて下さって、出来ぬけれども、出来たかのようにして、おかげを取り次いでくださったのも金光様。なるほど、金光様は、私共の大恩人だ。それを、神様も、金光大神は恩人だと仰っておられる訳です。そこは皆さん、分かりますよね。
そこで、問題は、それから先なんです。そういう大恩人の言われること。そういう大恩人の教えてくださることを、やはり、守らなければいけない。また、その教えてくださることを、聞かなければ、ね。金光大神の言うことにそむかぬよう、良く守って信心せよと仰います。ね。それは、自分の都合のいいことやら、便利のいいことだけは、皆が、言うことを聞きますけれども、ね。自分の都合の悪かったりする事は、聞こうとしない。私は、この御理解四節という事は、今日は、しせつ、ね。言うならば、し残しと。もう、死ぬか生きるかという瀬戸際、ね。これは、生死のことだけに限らず、いろんな問題、事件ごと、ね。
今、例えば、ほんなら、進学のための試験のことで、毎日お届けが沢山ございます。ね。ただ、神様の教えて下さる通りにしておれば、ね。おかげのほうになるという事だけを考え、自分の都合の良いようになるという事だけを考えて、御神意を頂いたりして居ると、大間違いの事もあります。ね。金光大神の、言われる事に、背かぬようにと、そういうところを、信心では、一つの節と言うたり、または、お試しと言うたり、ね。その節を、元気な心で抜け切ると、次から、その節から、枝が出たり芽が出たり、またはそのお試しに合格すると、言うならば、願い以上の合格のおかげという様な事にもなっておる。それこそ、夢にも思わなかったようなおかげであります。
私の信心を振り返って見ても、本当に、本当のおかげを頂くため。本当のおかげと言うのは、私は、力を受けると言うことだと思いますね。信心によって、いよいよ、神様を信じて疑わないという力を受けるという事。または、お徳を受けるという事。ははぁ、あぁいう時に、力を得たんだなと。あぁいう時に、まぁお徳を受けておるとするなら、お徳を受けたんだなと思わせていただくことが、沢山ございます。本当にこちらは、ただ、神様の仰せどおりに仕っただけ。それが、信心のない者には、薄い者やらは、それを大変、非難したり、けなしたり、それが、ひいては、警察問題になったり、私はね、警察に呼ばれたり、検事局に呼ばれたり、または、北野の衛生何とかですかね。小さい住宅の前にあります、あちらからの取調べを受けたり、まぁ、様々な事がありましたよ。だから、神様の仰せどおりに仕っておるのに、警察に呼ばれて、まるきりの何か悪い事ばしたように、それこそ、何と言うですか、あの、誘導尋問ですかね。もう、そげん言わんならんごたる風に、けれども、こちらは、それは当たり前のことを、当たり前に、ただ言うだけであります。(天地楽?)に行っても、やっぱ、そうです。ね。けれども、ね。本当に神様、あなたの言いなさるとおり、私がしてから、警察までも呼ばれたり、検事局まで呼ばれたり、恥ずかしか。もう、あーたの言う事は聞かんと言うとったら、今日の合楽はないです。ね。そこをまぁ、有難い、勿体ないで頂ききって、しかもそれが、おかげになっておるというところに、神様の働きに、間違いの無いという事になってくるのです。ね。ですから、金光大神の言うことに、そむかぬようにという事だったら、自分の都合のいい事だったら、誰でん言うことを聞くです。ね。
例えば、金光大神が、言うて下さることを、通りにして、右なら右と頂いた。左なら左を頂いたけれども、その事が、かえって結果が悪かった。もう、金光大神の言われることなんかは、聞かんと言うたら、その人の信心はそれまでなんです。ね。信心というものが、難しいというなら、そういうところが難しいと思う。だから、問題は、ほんなら、言うこと聞いてさえ行きゃ良い。一切が神愛で頂いていきせすりゃ良いというところが分かったら、だから、こんな見やすい事はないのです。ね。
例えば、お百姓なさる方達、田んぼ、ね。お野菜を、今度は、大根を蒔かせてもらおうか、白菜を作ろうか。芋が良いだろうか、牛蒡が良いだろうかといったようなお伺いをなさいます。そすと、神様がお知らせ下さいます。ところが、親先生が、キャベツならキャベツを作れと言われるけん、キャベツ作ったら、もうその年は、キャベツがもう、只んごと安かった。もう、とにかく、車賃もでらんといった様な事があったりする事もあるのです。それでもう、この次から、御神意を伺うてんするめ。自分の良かごつしよう。だから、それはそれまでです。そらそうですよね。またとないお徳を頂こう、またとない力を受けよう、下さろうと言うのですから、ね。そら、お伺いしてすりゃ、もう良かこつばっかりという事なら、もう、百姓なら百姓してても、もう、瞬く間に儲け出すでしょう。ね。そういう事ではない。問題は、信心の力を受けるという事。ね。
昨日も、ある一つの、ちょっとした事件事があった。お取次を頂いて、決められておったことが、不調に終わった。合楽の金光様が言うてから、不調に終わったっだから、合楽の教会を相手取って、裁判すると、相手が言われた。そら、裁判をするなら、裁判をしたが良し。もし、私が、そんなら、罰金をとられるなら、罰金を納めもしよう。ね。だから、御神意を頂いて買うたつだから、ね。ここに起きてくる結果は、それを神愛と頂く。そしたら、その話をしたら、あんたんもう、こんこんさん、こんこんさんち、ぼうけとるけん、こげな事になると、まぁ言われたと言うのです。もうだから、金光様の信心は、本当に信じて疑わない。場合には、そういう時にでも、親先生が、あぁ仰ってこうなったんだから、これが神愛と受けていくというくらいな、ぼうけ方をしなければ、力も頂けません、お徳も、絶対に受けられませんです。おかげだけなら、もう自分の都合の良かとこだけでいい。それではね、もう、金光大神の信心にもとるです。
昨日から頂きますように、梅の花の信心と桜の花の信心、ね。だから、金光教以外の信心を、昨日は、桜の花の信心と聞いて頂いた。だから、桜の信心より、梅の花の信心をせよと仰るから、金光教の信心を頂かなければならんというお話であった。ほんなら、何故その、教祖様が、金光大神の梅の花が良いというのは、金光様、教祖様は、一つの金光様のご流儀でもありますけれども、他所の宗派、他派をそしったり、悪く言ったりするような事は決してなさいません。しないのが金光教。だから、教祖様は、いわば、梅の花と桜の花に例えて、お説きになっておられる。
例えば、ほんなら、仏教とか、キリスト教という、もう世界の大宗教と言われる様な宗教は、それこそ、桜の花の信心である証拠に、今はもう、言うならば、散り果てておる姿が、あの大宗教の姿です。ね。だから、記だけは残っておる、教えだけは残っておる、沢山、膨大なものである。けれども、もうそこには、実もなからなければ花もないという、散ってしまっておるのが大宗教。また、ほんなら、新興宗教辺りのように、ご利益がいただける。ご利益ご利益と言うておると言った様な事やらは、昨日の御理解頂くと、そういう一つの霊徳的なものによって、助かるというのは、その霊徳者が亡くなった途端に、すとっと、桜の花が散るように散ってしまうんだと。ね。只、あそこは、お伺いが効くげな。あそこはもう、その奇跡的なおかげが受けられる。そのおかげも事実だろうけれども、ね。言うなら、教えの根拠というか、本当に、例えば、教祖金光大神が、いわゆる、天地金乃神を対象とした、天地の心を心としたところから、生まれてくる教えでない宗教を、私は、昨日は、桜の花の信心と言うて聞いて頂いたですね。そこでほんなら、金光教の信心は、梅の花の信心だけれども。もしその梅の花の信心がです。ほんなら、おかげ頂くことだけ、自分の都合の良かところだけを聞くのであったり、守るのであったりとするならば、それは、やはり、桜の花の信心と同じこと。梅の花の信心をさせて貰うて、なるほど、花が咲いた頃には、鶯が来て止まろう、また、実も実ろう。その実りが、梅干にもなる時には、何時まで置いても悪くならんというような、徳の実りが実れる信心をさせて貰って、初めて、うっめの花の信心という事になるのです。ね。
だから、金光教の信心でも、いうならば、そら、あんたどんが、ぼうけとるけんと言うぐらいな事では、ね。もう、おかげだけしか願わない。都合の良かこと、はぁ、親先生の言いなさる通りしたけん、こげなおかげ頂いたと言うだけに、只、喜んで、反対の事があったら、こりゃもう、金光様の言わっしゃる通りばっかりしよるなら、こら、ぼんぼろ帽子になってしまうばい、と言う様な頂き方をするなら、やはり、それは、桜の花の信心と言わなければならん訳です。ね。教祖様自身が、そういうところをお通りになっておられる。今日は、親戚の誰それが亡くなった。親戚の者を誘って、お悔やみに行けと。びっくりされたわけでしょうね。それで、近所のご親戚を誘うてお出でられると、当の本人が出て、あら、今日皆さん、何事ですかと。出てこられて、もう、神様の言うこと聞きよるなら、もう恥じかかにゃん。もう、こげな事は、もう、あんまり聞かれんと言うておられたら、今日の金光教は無かったんです。ね。もう本当に、私のいただき違い、として頂かれておるところにです。神様は、戻しの風はじゅうそう倍と言うて帰れと仰った。ね。十層倍どころか、百層ばいどころか、ね。いわば、こう言う有難い道が、そういうご信心から開けてきたのです。
金拾いの問題でもそうです、今日は、金を拾わせるからと、わざわざ、弁当作らせて、玉心辺りまでも、ね。歩いてお出でられるけれども、神様の仰るお金は、一銭も落ちとらじゃった。神様にお伺いをされると、ここで弁当を使えと仰るから、そこで弁当を頂いてお伺いされると、これから帰れと仰る。それこそ、本当は行き損じゃ。只今、帰らせて頂きました。今日は、如何ほど拾うたかとこう仰る。もう神様、今日は、数を読まれんほどしの拾い物をさせてもらいましたち言わっしゃったち。拾うたものが、数が読めん事は無かろうと。ご承知の通りに、朝から、こうやって、御神勤のおかげを頂いておりますと、何時の間にか、血の巡りも悪うなり、今日はもう、本当に、変えがたい命を拾わせて頂いたち言わっしゃった。お前ばっかりは、試しようが無いと。ね。お前ばかりはもう、試しようが無いと仰ってから、まぁだそれから、試しておられるという事です。だから、本当の宝のようなもの。本当に、あの世に持っていけるほどしのもの。しかも、この世にも残して置けれるほどしのものを頂くのにです。ね。そういう、ほんなら、お試しにも、それを、有難いほうへ有難いほうへと、いわゆる、合楽で言われる、一切神愛として、いただけて行けれる信心を、身に着けるという事は、ね。信心のない者、薄い者から見たら、あんた段、ちっと、ぼうけとらんのという様な事もありますけれども。ね。金光様のご信心は、もう、幾ら、ぼうけたっちゃ良かです。ね。ちゃんと、神様が、いわば、顔を立てて下さる。必ず、おかげの、そこから、おかげの道が開けてくる。ね。
今日は、私は、御理解四節を、ほんならば、死ぬか生きるかというほどしの、これがほんなら、健康であるような場合はね、それが、しせつになりますでしょう。ね。死ぬか生きるかというような時でもです。金光大神の言われる事にそむかぬようにと言う、生き方を、いよいよ、身に付けて、そこを頂きぬいていく以外にはありません。
本当に、神様を信じて疑わないためには、やはり、そういうところも通らせていただいて、ね。そして、神様の間違いなさを、いよいよ、確かなものにしていくというところにならんと、何かがあると、そこに迷いが起ったり、その節から折れる様な事にすらなるのです。皆さん、いっちょ、本気で、棒けられるほどしにです。それこそ、神様に、一つの、べた惚れが出来るくらいなおかげをいただかにゃいけません。ね。親先生が、言われる通りの事をさして貰うて、それがよし、地獄道に繋がっとっても、いとわんというくらいな、私は、惚れ込み方が無からなければ、本当の力は受けられんと思う。
昨日は、マルショウの父兄会がございました。それで、後の一時間と、ちょっとばっかりの時間を事務的なお話し合いが済んだ。そこで、私の話を聞きたいというので、ここの修行生と一緒に、まぁ研修指せて貰いました。ね。例えば、マルショウのお母さん達が、いわゆる、その父兄会のお役を承っておられますから。そして、昨日、感心したことは、お母さん達が、みんな、その、普通は参りが出来んといった様な人達まで、子供のその父兄会ということで、出てくる。しかも、時間励行で出て来たのには、私は、本当に、みんな感心しました。ね。そして、私は、申しましたが、こういう事務の打ち合わせとか、父兄会のことに、あの、マルショウの事についての話し合いという事は、信心でないような思い方をしては馬鹿らしいよと。これも、御用ですから、ね。お参りが出来る、また御用としての真が、真心が無からなければいけないよと、先日、頂いた、真で成就せん事はないと仰るが、その真という事は、いうならば、素直ということである。ね。私がお知らせを頂いたのは、あの、直いという字です、直という字、ね。ははぁ、信心の真と言うのは、素直になることだ。これが芯である。これは、普通、人間的に、あの人は素直というのと、信心で言う素直と言うのは違うです。ね。それこそ、人からは笑われても、ね。
ほんなら、私が、修行中の時分に、私のもう、大変、心易い人が、もう大坪さん、もうあんたほどしの商売人が、どうしてこげな、破れ鞄下げちから、破れ服着てから、その、話て回らにゃならんのち、ね。私が、衣装ば、どげんかするけん、商売ば、ま一遍やらんのち、親切に言うてくれた。ね。けれども、私は、もう人からは笑われても、そしられても、ね。神様の仰せには背かれんという生き方ですから。もう、それを辞退した。もう私は、あんた、まちっと素直かと思いよったら、もうたまがった、私だん知らんと言うように、言うてくれる人がありました。だから、人間の素直というのと、神様へ素直というのとは違うでしょうが。神様へ素直というのは、どんな場合であっても、神様の言うことを、「はい」。例えば、今日の御理解で言うなら、金光大神の言うことにそむかぬ様にと言うのが、素直です、ね。だから、その素直心というものを極めていかなければならない。それに、信心の、その素直という事は、この直という直だなぁと、私は、思わせていただいたら、神様が、それに、下のほうへ、点々と、点を二つ打ってくださった。そしたら、それが真という字になるでしょう。ははぁ、真で成就せぬことが無いという事は、こういう事だなぁと、こう私は思うて、それ以来、そのことを、皆さんに聞いてもらうが、昨日も父兄会の方達に、その事を聞いてもらった。あーた方が、今日は、言うならば、お参りで教会に見えたわけでも無からなければ、何か特別な、そのお祭りだからという事でもない。お願いがあってから、参ってきたのでもないけれども、いうならば、子供が、マルショウに入っとらんならば、来んでも良かといった様なことだろうけれども。そこに、マルショウの一つの、まぁバックとして、親の方達が、父兄会として御用頂かれるのですから、もう本当に、神様の御用と思うて、その、そういう風に、素直に聞いて、ね。来なければ、折角の、その、お参りが無駄になってしまう。ただ、その会議であったとか、話し合いであったとかというだけに来たのでは、何にもならん。ね。だから、素直に来る、そして、それが、点々と言うのは、ご参拝という事と、御用ということだと、私は聞いている。ね。ご参拝、お参りをするという事。そして、ほんなら、御用をさせていただくという、その、いわゆる、素直になって、お参りが出来て、御用が出来たら、それが真だと。そういう信心が、繰り返されていくところに、成就せんことはないという事になるのだと。
夕べ、総代会の時に、高山さんが見えておりましたが、もう、親先生の記憶力の強かつにはたまがったと言うて、嫁と二人で話しましたと言う。私が、ちょうど、父兄会に、高山さんところの嫁も、出席しとりました。して、何かの話、ね。例えば、どういうその、形のようなものでも、もう、あん奴がと、私が思うたら、必ず怪我をしたり、死んだりするですよ。もう私は、過去、信心の薄かった時分に、それが、事実になって、現れてきて、本当に、相すまん事だったなぁと。祈りの強い人が、あん奴がと思うたら、あん奴が病気するです。もう、あん奴は、いっちょ、罰かぶってから、お気付けどん頂くが良かと思うたら、絶対、お気付け頂くです。だから、罰かぶらせたり、お気付けを頂かせたりすることは、こら、強い子じゃないと。例え、私のことを悪口言いよる、私を裁判にかけるというような人の事でも、祈らなければおられんのが、いうならば、金光様のご信心です。だから、私が、あん奴がと思う。そげなこつ言いよるの、そんなら私が、今にお気付けいただくがのち言うたら、お気付け、絶対頂くです。そら、そうでしょう。私の祈りで、医者が助からん病人が助かるのじゃけんあーた、反対に死ぬこともあるくさ、ね。踊る宗教の、あの教祖なんかと言うのは、もう、裁判なんかに呼ばれる時に、裁判所に、お前は、俺を裁きよると、お前は死ぬるぞと言うたげなけんで、裁判が取り止めになったち。そのくらいに、やっぱ、威力があったわけですよね。だから、金光様のご信心は、その、祈り殺したり、相手を憎んだりする信心じゃないですから。ね。
けど、そんな話からでした。高山さんの所に、創価学会の人達が、十何人、もろ袖打ってやってきた。そして、どこどこ座敷に上がって、高山さん達夫婦を前に据えて、もう、それこそ、金光教が、もうつまらんこと。もう、金光教てんなんてん、あら、邪教と。だから、創価学会になれと言うて、その、十何人の者が、移り変わりもう、しっかりその、言うならば、折伏に来たわけですね。それから、お母さんのほうが、もう聞いてしもうてから、そればってん、そげん新たかな仏様ならば、あーた達が、こげん、やーやーやって出て来なさらんでん、どんどん助かろうばってんのち。私がお参りしよる、合楽の教会と言うところは、もう、それこそ、親先生は、ただ、御結界に座っておりなさるだけだけれども、ね。教えを求め、救いを求めて、みんなお参りしてくるとが、みんな助かっておるですよち言うたげなけん、もう、それっきり、何も言わじゃったち。そしたら、その、連れてきた人が、腹けちからね、そんなら、こんこんさんと、いっちょ創価学会が、どっちが強かか、競争しよち言うて、もう、ほんな、それこそ席を蹴って立たれたそうです。あーして、もう腹けちて帰りよるもんですけね。それであの、ガラス戸ば、がちゃんち、こう閉めちから、ところがそん、がちゃんちせいたつは良かったばってが、手ば、挟めたげなもん。そうばってん、手ば、こうこやって、打ちぶって帰りよりなさったけん、もう、可笑しくて可笑しくてと言う事だった。ちょうど田んぼが、山の、上と下ん段に、田んぼがあるそうです。それから、こうして田んぼに行ったげなら、その人が、やっぱ、田んぼに来ちゃったげな。そうしたら、甲がこんなに腫れとるげなもん。はっはは、どっちが勝つかち、やっぱ、金光様がかちなさった訳たいの。あっはは、それでもう、つるつる帰られたというお話を、以前、聞いた事がありましたから、ね。例えば、相手ば、罰かぶらそうとか、相手に勝とうとかと思わんでん、ちゃんと、実際の力のあるものは、そこに、そういう現われがあるという事。ほんなら、そういう時にです。ほんなら、今日は、皆さんに聞いていただく、ほんなら、神様というものは、こう言う神様。それこそ、何丈ち言うて、植木を植えてあるとが、枯れてしもうた時に、お願いに見えたんですからね。そして、一晩中、その、水をかけて、そのもう、これが枯れたら、もう、直ぐ、全財産を打ち振るというごたる大変な事じゃった。そるけん、お願い来て、お神酒を頂いて、そのお神酒をお水で薄めて、そして、それをずーっとその、撒きなさった。そしてその、山小屋で、あくる朝、明けて、田んぼに出られたところが、その何丈の苗が、全部、青々となっとったと、もう腰の抜けんばっかりに、びっくりするち言う様なおかげを頂いて、あの、高山さんの信心が始まったつです。だから、そういうおかげを受けて、知っておられるもんですから、もう、確信に満ちて、まぁ言わするこつだけ言わせて、言うならば、そういう、まぁ確信に満ちたことが言えれたという事なんです。ね。だから、どういう事があっても、迷いもせん、疑いもせんといった様なおかげを頂かせて貰うて、その上にです、ね。親先生任せにならせて頂いて、次から次と起きてくる、言うならば、難儀な問題もあろう、有難いこともあろうけれども。そこを通り抜けた向こうに、言うならば、お徳があるのだという事。力が頂けれるんだという事です。
お互い、色んな一つの、本当に、一生懸命の、まぁ資格とでも申しましょうかね。その(偲ぶ師?)と言われる様なところも、辿らせてもらいますけれども、そういう時に、一番、もうそれこそ、親先生から言われて、これが地獄道に落ちてもかんまんというくらいな度胸を据えて行かなければ、ね。次の飛躍的なおかげにも、力にもなりません。そういう時を、人は、ぼうけた、あの人はもう、金光様にぼうけてござるけという事にもなりましょうけれども、ね。決して、そういう事で、金光様の、いうならば、顔を汚すという事は、決してありません。神様、そんくらいな事で、顔を汚しなさる神様じゃないです、ね。それこそ、先を見ておれ、先は知ってはおらんと仰る様に、ね。そういうおかげを頂く。金光大神の言うことにそむかぬようにという事は、ね。そういう時に、そむかんで済むだけの信心を頂いて、初めて、金光様の信心が、梅の花の信心だという事が分かるですよね。どうぞ。